曽我兄弟と虎御前のお話

曾我兄弟
曾我兄弟/歌川国芳

曽我物語』は兄・曽我十郎祐成と弟・曽我五郎時宗が主人公で、兄弟の父の敵である工藤祐経を討つまでを描いた「日本三大仇討ち」の一つです。

 

物語は平安末期、所領争いの末に兄弟の祖父であり、自身の叔父である伊藤祐親に恨みを抱いた工藤祐経は刺客を放ち、兄弟の父・河津祐泰を矢で射殺します。

 

当時5歳の十郎祐成(幼名一万)は父の亡骸を見、母の嘆きを聞き、涙を浮かべながら「大人になったら父の敵を討つ」と言って周りにいた人たちの感嘆を誘いました。そのとき五郎時宗(幼名箱王)は3歳。まだ父の死も母の悲しみも兄の決意もわかりませんでした。

 

その後母は曽我太郎祐信に嫁ぎ、兄弟は曽我の里(現在の小田原市)で成長しました。兄が9歳、弟が7歳になった年、祐成が飛ぶ雁を見ながら弟に父のいない悲しみを語り、兄弟揃って大人になったら敵討ちを果たそうと決意します。しかし平家が滅び、源頼朝の治世がはじまり、敵工藤祐経は頼朝の御家人となっており、兄弟が敵を討つということは身を寄せる曽我祐信の身を危うくすることにもつながり、母は兄弟に敵討ちをやめるよう諭します。

 

世の中が大きく変化していく中、兄一万は元服をし曽我の家督を継いだので、このときはじめて曽我十郎祐成と名乗るようになります。弟箱王は母の命により箱根権現に参り、僧になる修業を始め、父の供養のため一日中経を唱え冥福を祈る日々を送ります。

 

箱根山での月日を重ねた箱王ですが、父のいない悲しみも日々思っていました。ある年の正月源頼朝一行が箱根権現を参詣しました。その中に敵工藤祐経も同席しており、箱王は初めて敵の顔をみることになりました。祐経の顔が脳裏に焼き付いた箱王は修業に身が入らなくなり、出家をする前日に箱根山を下り兄祐成のもとへ身を寄せます。

 

兄祐成は弟を連れて北条時政の館へ行き、そこで元服を果たしました。ここではじめて五郎時宗と名乗るようになります。その後母のもとに参りますが、五郎時宗の元服を望んでいなかった母は五郎時宗を勘当します。

曾我兄弟
曾我五郎時致/歌川国芳

それから兄弟は一緒に行動するようになります。そして兄十郎祐成は工藤祐経の情報を仕入れるために酒匂、国府津(小田原市)、渋美(二宮町)、小磯、大磯(大磯町)、平塚(平塚市)などの宿を回りました。そして大磯の宿で虎に出会います。

 

虎は平治の乱で追われた名のある武士と平塚の宿の夜叉王という遊女の娘で、寅の年の寅の日の寅の刻に生まれたから三虎御前とも呼ばれています。彼女の父が亡くなり大磯の遊女に養女として引き取られそこで成長しました。

 

十郎祐成は虎のもとに通い、十郎祐成20歳、虎17歳の時に終生添い遂げようと誓い合いました。五郎時宗は影の形に添うように十郎のそばを離れず行動を続けました。

 

大磯の宿に滞在していた兄弟は工藤祐経が近くにいると聞きつけ、祐経が鎌倉へ上る道中の戸上が原(藤沢市)で祐経を討とうとしますが、これは失敗に終わります。

 

その後頼朝が狩場巡りをするため諸国の武士がを集めます。その中に工藤祐経もいます。兄弟は狩場である上野(現在の群馬県)や那須野(現在の栃木県)などを巡る一行を追いかけ、各地の宿所で敵を討つ隙を狙いますが、警備が多くなかなか好機が巡ってきません。

 

そして富士野(現在の静岡県富士宮市)で狩りが催されると聞いた兄弟はここで必ず決着をつけようと誓います。今までは身の安全を考えていたから失敗したのであり、今回は生きて帰らない覚悟で富士野に行く決心をします。

 

 

曾我兄弟
國史畫帖『大和櫻』より/十二、曾我兄弟富士の裾野に父の仇を討つ

十郎祐成は虎のもとへ行き、敵討ちの本心を打ち明け、自分の鬢の髪を形見として虎に託します。虎は十郎との今生の別れに涙し、「いた間より 分かれて後の 悲しきは 誰に語りて 月影を見ん(あなたとの別れの悲しさを、誰に訴えればいいのでしょうか。板葺きの屋根の隙間から漏れてくる月の光を、誰と見よ、と言うのでしょうか)」と歌を詠み、十郎も「厭ふとも 人は忘れじ 我とても 死して後も 忘れるべきかは(仮りに私を嫌っていたとしても、いや、いや、恋してくれているのだもの、あなたは私を忘れることはないでしょう。私だって死んでもあなたを思い続けています)」と涙ながらに返しました。

 

 

五郎時宗は母に勘当されたままでは心残りだとして、曽我の里を訪ねます。そして兄十郎祐成の説得により母は五郎時宗の勘当を解きました。そして本心は告げず書に書き留めて、母からの形見の小袖をもらい曽我の地を後にします。

 

富士野についた兄弟は狩りの最中の工藤祐経を狙いますがここでも取り巻きが多く思惑を果たせません。加えて工藤祐経一行が翌日に鎌倉へ帰ってしまうという情報を聞き、兄弟はその日の夜何があろうとも討ち果たす決意をします。

 

折悪く十郎祐成が工藤祐経に見つかり敵討ちの成就が危ぶまれましたが、難を逃れ夜を迎えました。寝静まった工藤祐経の宿所に討ち入り、寝首を掻くことはせず正々堂々と名乗りを挙げて兄弟は父の敵を果たしました。その後騒ぎに気付いた周りの武将たちが兄弟に挑み、何人も倒しましたが兄祐成はそこで力尽き命を落としました。五郎時宗もそこで命の限り戦おうとしましたが、召し捕らえられ頼朝の前に引き出されることになりました。

 

頼朝の前で五郎時宗は幼いころからの宿願だった敵討ちを語り、延命するつもりはないと語り、その語り口を聞いた頼朝は武士の魂を感じましたが、ここで五郎時宗を生かせば更なる遺恨の連鎖につながるとし、五郎を処刑しました。

虎御前
賢女烈婦傳 虎御前/歌川国芳

兄弟の死後虎は出家する決意をしました。そして曽我の里へ行き、兄弟の母と面会し、二人で箱根権現へ兄弟の供養に行きました。そして箱根の別当を導師として法要を営み、虎は箱根の別当を戒師として出家しました。

 

兄弟の母と虎は別れ、虎は禅宗尼と名乗り十郎祐成のゆかりの地をめぐり、その後は仏道に専念しました。虎は19歳で出家してから40年あまりの勤行の甲斐あって64歳で往生を遂げました。この時代にあっては世間を驚かすほどの長寿です。虎は亡くなる前のある夕暮れに大御堂の大門に出て昔を思い出していたときに、庭の桜の小枝が斜めに垂れ下がっているのを、十郎の懐かしい姿だと見て、走りよって抱きつこうとしたところ、ただの空しい木の枝であったので前のめりに倒れて、そこから病気になりましたが、さして苦しみもせず往生を迎えたそうです。

 

出典:西山正史監修・葉山修平訳『曽我物語』(現代語訳で読む歴史文学)勉誠出版、2004